
運命のブザーが変えた軌跡と太平洋へと向かう53歳の挑戦
初夏の強い日差しが照りつけるサンフランシスコの街。ここカリフォルニアの地で、2026年現在、一人の日本人旅人が静かに牙を研いでいる。岩崎圭一、53歳。28歳で日本を飛び出して以来、25年間、一度も故郷の土を踏んでいない。
自転車でユーラシア大陸を横断し、エベレストに海抜ゼロメートルから登頂、ガンジス河やカスピ海を手漕ぎボートで渡ってきた。近年では、イギリスの超人気オーディション番組『ブリテンズ・ゴット・タレント』で日本人初の「ゴールデンブザー」を獲得し、その動画が1億回以上再生されるなど、世界的な有名人となった。ヨーロッパから南米までは大西洋を手漕ぎボートで約3ヶ月、人力で渡った。

そしてアメリカ大陸を北上し、サンフランシスコに到着。モントレーで日本人学校の100周年イベントや日系人主催のパーティーに飛び入りし、サンフランシスコの日本町を自転車で巡りながら、地元の人々と深く触れ合っている。その目的はただ一つ。四半世紀の放浪を経て、ついに「日本へ帰る」ための壮大な準備を進めているのだ。
始まりは『電波少年』
旅を動かした3000円の自転車
ーーそもそも、なぜこの壮大な旅を始めようと思ったのか。
単純に世界が見たいなあって思っていて。観光地とかではなくて、世界の方がどういう風に生活しているのか、その姿を見たかった。とにかく世界を見たい。最初から人力でまわりたいと思っていたわけではないですが、ただ飛行機は使いたくなかった。飛行機だと、たとえば東京からインドに行こうとしたら成田を出発して、着いたらもうインドじゃないですか。この二つしか見ることができない。陸で行けば、韓国、中国、タイとか色々な国を通って行かないと行けない。そうすれば、色々な国を観れるなと。
ーー当時はテレビの影響もあったとか。
当時、『電波少年』という番組で猿岩石がヒッチハイクの旅をしていました。あのテレビを見て、自分もリアルにいけるなあって思っちゃったんです。低予算の旅だったし、大道芸をしながら資金を集めていけるんじゃないかってね。自分もなるべく陸路で世界を見たいな、最初は3年くらいで回ろうと思っていました。有吉さんたちは香港からイギリスまで半年だったじゃないですか。だから3年あれば世界が回れると思いました。
ーー群馬を出発してからの、最初の足取りは?
群馬から山口に行き、下関から釜山にフェリーでまず行きました。そのフェリーのチケットも、途中で知り合った人にもらったんです。韓国に渡り、それから仁川に行って、そこから中国の青島に行きました。青島までもフェリーでしたね。その時も韓国で知り合ったシムさんという方に『圭一はお金がないんだから植木屋で働け』と言われて働き始めて。稼いだお金は一度シムさんに渡したんですが、シムさんがそのお金で青島までのフェリーチケットを買ってくれたんです。あと『青島に着いたら危ないから自転車を買いなさい』と3000円をくれた。元々はヒッチハイクで回ろうと考えていたのですが、そこで自転車が出てきたんです。
ーー偶然の自転車との出会いが、旅のスタイルを決めた。
「自転車で始めたら、意外にもとても面白かったんです。自転車だとゆっくりなんでいろんなものが見えるんですね。バイクや車だと途中を飛ばしていく感じじゃないですか。でも自転車だと疲れるから途中で休憩したりしながら……荷物も多いですしね。そうすると地元の人が『お前どっから来たんだ』とか声をかけてくれて、会話が始まるんです。 最初はホームレス同様です。お金もないので、食事はもらったり、カンパンのような乾燥したパンをずっと持って少しずつ食べていました。でも不思議と病気はしませんでしたね。すごく健康でした。質素なものを食べて、運動をしているので。
ーー旅の資金はどのように繋いできたのか。
手品は趣味だったんですが、ネパールでお金もなくなったので大道芸を始めました。基本的には90日とかビザの期間に合わせて、国を移動していました。大道芸の稼ぎが良いところは長めに滞在しましたね。スイスとかはとても良いお金になるんで長めにいました。大道芸の許可証もくれるんですよ。警察も優しくて、申請場所など教えてくれたり。そういう街には長くいました。ヨーロッパはまとめて90日しか入れませんが、一旦、西欧から東欧に出て、また西欧に戻るみたいな感じでヨーロッパには長くいました。
ーー気づけば、当初予定していた「3年」を大きく過ぎていた。
ヨーロッパに着いたのは、出発してもう5、6年経っていたと思います。28歳で日本を出て、30歳くらいには戻らないと就職が難しいなあと考えていたので、だから3年で戻ると計算していました。嫁さんももらいたかったですしね(笑)。ただ、海外に出てみるとみんな年齢を気にしないじゃないですか。誰も聞いてこないですし、そのうち『35歳くらいに帰ろう』と考えていました。でも35歳の時はまだハンガリーでした。じゃあ40歳に帰ろうと……そしたらあっという間に40になっちゃったんです。40を過ぎたら、もういけるところまで行こうという考えになっちゃいました。
エベレストへの挑戦と
ネパールで訪れた人生の分岐点

ーーこれまで83カ国を巡ってきた中で、一番思い出深い国はどこか。
「ネパールですね。エベレスト登頂をした時です。本当に色々なことがありました。世界一高い山を見たら『これを登れるかな』と思って、登りたいって思っちゃったんです。だからネパールで訓練したら、早く登れるんじゃないかと思って2年ほど滞在しました」
ーーそのネパール滞在中には、プライベートでも大きな出来事があった。
「その時に、結婚を考えた彼女に出会ったんです。彼女は同じ中学校の1年後輩でした。彼女はバックパッカーをしていて、現地で意気投合してね。その時にうちの両親は『お前と結婚してくれる人がいるのか!』と大賛成だったんですが、彼女の両親が大反対で。それはそうですよね。仕事もない、いつ帰ってくるかわからない男と結婚なんて、普通の人はそうじゃないですか。そこで、彼女は『両親を説得する』と言って日本に帰国したのですが、逆に説得されてしまったようで帰って来ませんでした。 でも、その時に結婚しなくてよかったなあって今は思っています。もし結婚していて、書類にサインして、その後『あと3年は海外に行きたい』って言っても、認めてくれないかもしれないじゃないですか(笑)」

1億回再生の快挙から
大西洋を人力で越えるまで
ーーヨーロッパへ戻ってからは、メディアへの露出も増えていく。
あとはイタリアですね。一番最初にテレビ(ゴッドタレント)に出たのがイタリアだったんです。ローマの路上でパフォーマンスをしていたら、テレビ関係者が観てくれて『テレビに出てみない?』と言われました。その時は『またまたあ』って感じで捉えていたんですけど、本当にメッセージが来て出ることになりました。1回目に出た時にとても好評だったんです。そしてその後に路上でパフォーマンスをしたら、投げ銭がとても多くなったんです。『テレビ見たよ!』って多くの人に言われて。そこで『テレビに出ることで宣伝効果があるんだ』と気がつきました。それから、イタリアの番組を見たっていう他国のゴッド・タレントから声がかかるようになりました。結局、アメリカも含めて8カ所のゴッド・タレントに出ました。アメリカは、各地域の代表者が集まるオールスターズというものに出させてもらいました。

ーーそしてイギリスの『ブリテンズ・ゴッドタレント』での、日本人初のゴールデンブザーという快挙に繋がる。動画の再生回数は1億回を超えた。
当時のゴールデンブザーは、審査員1人につき年間1回のみ使える『運命を変えるブザー』って言われていました。私の場合もそうで、まさに運命を変えるブザーになりました。ヨーロッパから南米に渡るには大西洋を渡らないといけないじゃないですか。人力で行くならって考えたら、手漕ぎのボートしかないなと思ったんです。どうにかこうにか資金集めをしようと思った時に、イギリスのゴッドタレントに出ようと。優勝したら4000万円くらいだったんです。これで勝ったら夢も船も買えるぞと。結果としては負けたんですがゴールデンブザーを獲得した。そうしたら、その動画を日本のIT会社レアゾンの社長が観ていてくれて、『あなた船が買いたいんなら、スポンサーします』って言ってくれたんです。それで船が買えて、ポルトガルからスリナムに手漕ぎボートで渡ることができました。
ーー大西洋を横断した後は、南米から北米へと上がってきた。
スリナムは南米の北の方にある国でベネズエラの隣ですが、治安の問題もありベネズエラを通ることができなかったんです。アマゾンも渡れないので、一旦、南に向かいブラジルに入り、パラグアイ、チリに降りていき、そこからペルー、エクアドル、コロンビアと太平洋側の国を北上していきました。その後、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラ、メキシコ、サンディエゴ、ロサンゼルス、ビッグサー、モントレー、サンフランシスコと上がってきました。
メキシコは、ちょうどカルテルの事件があってその影響で少し進みが遅くなりましたが、危ないと言われつつも一般市民は大丈夫でした。幹線道路から外れないように、田舎には行かない、未舗装道路も行かないなどの注意をしながら走っていました。近道は絶対にしないようにとも言われていましたね。
ーー言葉の壁はどう乗り越えてきたのか。今では10カ国語ほどでコミュニケーションが取れるとか。
言語は基本、英語です。最初はそんなに喋れませんでしたが、話しているうちにコミュニケーションが取れるようになりました。あとは現地の言葉を喋りたいと思って勉強していました。昔は、自分の言いたいことを現地の人に教えてもらい、聞いたままの発音をカタカナにして紙に書いて覚えていました。スマホになってからは、喋ってもらって録音して、日本語でその言葉をタイトルにつけて、何回も聴いて覚える。たとえば『テントを張りたい』と英語で言って、『それをポルトガル語で何ていうの? 喋って』とお願いして録音するんです。だから色んな言語が今このスマホの中に入っています。あとはジェスチャーですね! 紙に書いて絵を描いて言いたいことを伝えるんです。

「意思あるところに道はある」
そして、25年ぶりの母国へ
ーー今回、ついに日本へ帰ることを決意した一番の理由は。
やっぱり両親です。高齢なので、両親が元気なうちに会いたいです。92歳の父、85歳の母。帰ってあげたい。その思いが強くなったんで、最後の方はちょっと無理して、寄り道せずにここまで来ました。父とはローマ滞在中の2011年に会ったきりなんです。
ーーハーフムーンベイで最後の野宿をした時の心境は。
これで自転車の旅は最後かと思うと、とても感慨深かったですね。この自転車も持って帰ろうと企んでいます。日本に帰ったあとは、いつかモロッコから南アフリカまで自転車でアフリカ縦断してみたい。もう一度住みたい町はイタリアの南部、ナポリですね。気候も良いですし、人も温かい。さらに食べ物も美味しいですから。サンフランシスコもとても気候が良いし、綺麗ですね。
ーー旅の最終章である「太平洋横断」の準備が始まっている。
今回は、クラウドファンディングで太平洋を横断するための手漕ぎボートを買う資金を集めました。このあとは、7月中にハーフムーンベイか、サンフランシスコ、モントレーの3箇所のどこかから出航しようと考えております。天候や海流に左右されるので、まだ専門家の意見を探っている感じで準備を進めています。本当はサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジの下を通って、と思っていましたが、かなり海流が強いということを聞いたので、ハーフムーンベイかなと思っています。
ーーヨットで単独無寄港太平洋横断をした堀江謙一さんも、サンフランシスコが出発地だった。
堀江さんの本も読んでいましたし、手漕ぎボートでの横断のきっかけの一つになっています。ただ、今、少し心配なこともあって。専門家によると今年はスーパーエルニーニョらしく、7月にサンフランシスコを出航できるかわからないんです。それに海の上では、やっぱり孤独が辛い。ただ、今回はイーロン・マスクのスターリンクでインターネットが繋げるのではと思っています。まあ、もともと私は孤独が大丈夫なんですけどね(笑)。
途中で辞めたくないです。リタイアはしたくないですね。病気などでやむを得ない場合を除いては……ぎっくり腰だけが怖い(笑)。両親のおかげで、健康な体なんです」

ーー大西洋では、飲料水を作る自動システムが壊れるトラブルもあった。
出航27日目、全体の3分の1くらい来たところで壊れてしまって。念のため予備の手動のものも用意していたのでなんとか助かりましたが、手動だとペットボトル1本貯めるのに、1800回もポンプを上下しないといけないんです。あと予想外だったのは、魚釣りで食料を確保できたことですかね。ボートの底に貝がくっついてきて、それを食べに魚が集まるんです。糸を垂らして1分くらいで、しっかりした魚が釣れます(笑)。なので、太平洋横断の際も釣具を持って行きます。
ーー今後の具体的なスケジュールは。
一旦、ビザの関係と、大西洋を渡った船をスリナムに置いてきているので、5月22日にアメリカを出てスリナムに行きます。6月後半にはサンフランシスコに戻ってきます。ちょうど、手漕ぎボートもその頃にオークランドに到着する予定なので。
出航してからは、3ヶ月ほどで一旦ハワイに着く予定です。食料などの補充をするためと、あとは8〜10月は台風シーズンなんで、それを避けて11月くらいにハワイを出て、おそらく日本には来年の2月くらいに到着する、と考えております。
ーー最後に、岩崎さんにとって旅を支え続けた信念とは。
「座右の銘は『意思あるところに道はある』。行きたいなあって思ったら、道ができているんです。一番最初からそのように思って旅をしております」
好きなことを続け、具体的に行動していく中で、その目標をどんどん広げてきた岩崎さん。家庭という錨を下ろさず、大西洋の荒波も、孤独な道のりも、すべて手漕ぎの力と笑顔で切り拓いてきた。25年という歳月を経て、いま、最も愛する両親の待つ日本へーー彼の「意思」が紡ぐ最後の道が、いま太平洋の上に描かれようとしている。
