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「海を渡って年中無休!!」 第5章

2026.09.02

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ヒトサラの向こう側

 映画『バベットの晩餐会』の最後で、主人公バベットは静かにこう語る。 「芸術家は決して貧しくありません」 初めてこの映画を観たとき、その言葉の意味を僕は十分に理解できなかった。全財産を一夜の晩餐に使い果たした料理人が、なぜそんなことを言えるのだろう。不思議な余韻だけが心に残った。

 それから三十年。僕はこのベイエリアで料理人として生き、多くの州、多くのレストランで腕を振り、技を磨き、数字を学び、そして一軒の店を築き、世界中から訪れるお客様を迎えてきた。その歳月を振り返る今なら、あの言葉の意味が少しだけわかる気がする。料理人の豊かさは、売り上げや銀行口座の残高だけでは測れない。 一皿の料理を通して誰かに安心を届け、その人の文化や価値観を尊重し、「あなたを歓迎しています」という気持ちを伝えられる。その積み重ねこそが、料理人だけに与えられた豊かさなのではないかと思う。

 ベイエリアでレストランを営むということは、その豊かさを毎日のように試される仕事でもある。 店の扉を開けると、世界中から集まった人たちが、それぞれの人生を抱えて席に着く。人種も、国籍も、宗教も違う。当然、食べることへの価値観も同じではない。ある人は宗教上の理由で特定の食材を口にしない。ある人はビーガンとして植物由来食品を選び、またある人は、小さな一欠片のナッツや小麦が命に関わるほど深刻な食物アレルギーを抱えている。一つのテーブルで四人のお客様が四通りの料理を求めることも、ベイエリアでは決して珍しいことではない。

 三十年前、この地で料理人として働き始めた頃、日本では「ビーガン」という言葉を耳にすることはほとんどなかった。グルテンフリーという考え方も一般的ではなく、食物アレルギーへの認識も今ほど高くはなかった。

 ところが、このベイエリアでは、そんな時代からすでに食の多様性が日常だった。 最初の頃は戸惑うことばかりだった。例えば、「ドレッシングは別添えで、ナッツと乳製品は一切抜き、ソテーはオリーブオイルのみで」といった細かなリクエストを初めて受けた時の困惑は、今でも鮮明に覚えている。日本の厨房で育った私には、「なぜそこまで細かく確認するのだろう」「自分の料理をそのまま味わってほしい」と戸惑う気持ちもあった。しかし、それはわがままなどではなかったのだ。その人にとっては、ごく当たり前の日常であり、譲れない生き方そのものだった。ある人にとって食事は宗教そのものであり、ある人にとっては自分の信念を表現する手段であり、またある人にとっては命を守るための選択でもある。料理人は、その一つひとつを理解し、尊重しなければならない。

 日本では、「おすすめは何ですか」と尋ねられれば、一番おいしい一皿を勧めればよかった。しかし、ここではまず「何を召し上がれますか」と尋ねることから始まる。おいしさを語る前に、安全であること、安心して食べられること、そしてその人の文化や価値観が尊重されていることを確認しなければならない。

 これは、日本が遅れているという話ではない。 社会の成り立ちが違うのである。文化的な同質性が高い環境で発展してきた日本と、多様な民族や宗教、文化が共に暮らすベイエリアとでは、料理人に求められる役割そのものが違う。ここでは料理を作る技術だけでは足りない。異なる文化を理解しようとする姿勢、知らない価値観を受け入れる柔軟さ、そして目の前のお客様の人生に敬意を払うこと。そのすべてが、一皿の料理に込められている。



 僕は、この三十年間で料理人という仕事の意味が少しずつ変わっていくのを見てきた。 料理とは、空腹を満たすためだけのものではない。 違いをなくすものでもない。 違いを認め、その人を受け入れ、「ようこそ」という気持ちを一皿に託す仕事なのだ。

 だから僕は今でも、『バベットの晩餐会』を思い出す。 「芸術家は決して貧しくありません。」あの言葉は、自分の持つすべてを惜しみなく差し出し、その一皿で誰かの心を満たすことができる限り、料理人は決して貧しくはないということだったのではないか。


三十年間、この米国で料理を作り続けてきた僕は、ようやく気づいた。 

「ヒトサラ」の向こう側にあるものを見つめること。 


 それが、料理人という仕事なのかもしれない。誰が決めたかもわからない星の評価なんて、もうどうでもいい。僕が本当に見つめたいのは、今日のお客様が見せてくれる、満足に満ちたあの表情だけなのだ。

 僕はエプロンの紐をキュッと結び直し、温かな灯りのともる客席へと目を向ける。 皿の向こうにいる「あなた」へ届けるために、今日も僕の一皿が始まる…。


神尾 正太郎氏(かみお・しょうたろう)プロフィール

1999年に渡米。「Ozumo」や「Yoshi's」などの名店で総料理長を歴任し、SF紙の「Rising Star Chef」や3つ星を獲得。主要都市を制覇した「グランドスラム・シェフ」となる。2013年、バークレーに「Iyasare」を開店し、ミシュラン・ビブグルマンを受賞。さらに米料理界の最高権威ジェームズ・ビアード・ハウスに招待され、NYでの特別ディナーを完売させた。現在は豊富なビジネス経験を活かし、「Pabu Izakaya」やハワイの「Izakaya 855-ALOHA」など全米の名店を監修。多くの企業や食品メーカーの米国進出を支えるコンサルタントとしても手腕を発揮している。

フード飲食業界・アメリカ進出サポート及び運営コンサルティング
ARUMONO LLC 【お問合せ】sho@shosf.com

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