サンフランシスコのジャパンタウンを歩いていると、「古き良き日本」にタイムスリップしたような錯覚に陥る。ベイエリアの日系人の歴史は古く、尊い。しかし、日々の生活に追われる我々は、そんなことをつい忘れてしまいがちである。「日本人が昔から大切にしてきたもの」を、行動と情熱で現在に語り継ぐ人物に出会った。秋山乃助氏だ。12月で81歳になったという乃助氏が創設し、今も相談役を務める「桑港樽神輿連」は2027年に60周年を迎える。半世紀にわたり日本の伝統文化継承と創造をベイエリアで体現してきた乃助氏に、自身の半生を振り返りながら、その思いを語ってもらった。

10代で渡米も帰国
煌びやかな夜の世界
穏やかな笑顔の裏に、日本の「男気」とアメリカで生き抜いてきた「強さ」を秘める乃助氏。神奈川県横浜市で生まれ育ち、19歳で初めて海を渡る。高校を卒業してすぐ日本を飛び出し、姉の住むサンノゼへ。学生ビザで学びながら数年ほど滞在するも、ビザの期限が切れて「追い出されるように」日本に帰国した。
帰国後は横浜で通関の仕事に就いた。最初は輸出部で働くが、若いわりに堂々としていた乃助氏は「生意気」と見られ、よく上の人と喧嘩をした。「手鉤(てかぎ:長い柄に金属のフックが付いた道具)を持って追いかけられて、おっかなかったよ」と当時を振り返る。
その後、輸入部に配置換えをしてもらい、そこでは楽しく仕事ができたいう。しかし、楽しかったのは仕事だけではなかった。煌びやかな「夜の街」にのめり込んでしまったのだ。
「考えてみたら、日本のあの夜の世界、(渡米前は)学生だった俺は知らなかったんだ。それで初めて知ったら面白くなっちゃってね。それで給料は全部飲み代に使って1日でなくなっちゃうんだよ」 と苦笑いする。
アメリカの歴史と交差
戦争と移民政策
そんな生活から抜け出すため、「もう逃げるしかない」と一念発起。再び姉の協力を得て永住権を取得。27歳、サンフランシスコの地に舞い戻ることを決意する。
乃助氏の人生は、アメリカの歴史における大きな転換期と交差している。乃助氏がアメリカに再び渡ったのは、ちょうど1965年の移民法改正により、人種・国籍に基づく差別的な割当制度が廃止され、家族の再統合や特定のスキルを持つ移民が優先された転換期と重なる。この法改正は、アジアやラテンアメリカ諸国からの移民を大幅に増加させ、アメリカ社会の多様化を大きく進めるきっかけとなった。
こうして永住権を取得した乃助氏を待っていたのは、ベトナム戦争下の徴兵通知だった。英語もわからないまま、友人を通訳に連れてサンノゼから古びたグレイハウンドバスでサンノゼからオークランドへ向かう。しかし、軍の施設に着くと通訳は断られ、ベトナム反戦運動で群がる人ごみをかき分けながら、乃助氏はたった一人で面接官が並ぶテーブルに向かうことになった。海軍は3年、陸軍は2年というわずかな情報から陸軍を選んだものの、英語が流暢でなかったために「また来年呼ぶから」と保留を言い渡される。
しかし、この「保留」こそが運命を分けた。翌年、世論の高まりを受け、徴兵制度は徴兵対象者の公平性を保つため「徴兵抽選(Draft Lottery)」へと大きく転換したのだ。特定の誕生月が優先的に呼ばれる仕組みとなったその抽選で、12月生まれの乃助氏は対象から外れることとなり、図らずも軍隊行きという重圧から解放されたのだ。
最初の結婚
日本人という外国人
当時、サンフランシスコのジャパンタウンには「トミコ・バー(Tomiko’s Bar)」というバーがあった。多くの日系二世・三世が交流する、日系コミュニティーの象徴的な集いの場だ。そこで乃助氏は一人の女性に出会う。彼女は幼い子どもを連れ、観光ビザで滞在しながらも居場所や生活の術がないという境遇にあった。彼女の境遇に深く同情した乃助氏は、助けになろうと結婚を決意する。しかし、程なくして彼女は日本へ帰国すると言い出し、結婚生活はわずか10カ月ほどで終わりを告げる。乃助氏は、帰国する彼女の身の回りの品や飛行機代を工面するなど苦労を重ね、その後、日本へ赴いて離婚の手続きを済ませたという。人情に厚い彼らしいエピソードである。
新しい家族と日系人が背負った苦難
乃助氏の人生を語る上で、現在の妻・ジュリーさんの存在は欠かせない。二人の馴れ初めは、乃助氏が田中誠一氏と共に創設した「サンフランシスコ太鼓道場」に遡る。ジュリーさんは初期の生徒であり、当初は師匠と弟子の関係だった。それが、ちょっとした引っ越しの手伝いをきっかけに交際に発展し、結婚へと至る。ジュリーさんは11人兄弟という大家族出身の日系三世。あの「フォーチュンクッキーの発祥」として知られる勉強堂とも縁のある家柄だという。
ジュリーさんの家族の歴史は日系アメリカ人が歩んできた苦難の道筋と重なる。ジュリーさんの親族である二世の男性は二人が第二次大戦で、さらに二人が朝鮮戦争で、計四名が戦死しているという。乃助氏は日系三世であるジュリーさんから日系人の歴史や文化を教わることにもなったが、こうした家族の歴史を通じて、彼らの苦労を深く理解するようになったのだ。

日系人コミュニティー
繋がりと敬意
彼の日常生活の中心には、日系人コミュニティーとの深いつながりがある。週末や祝日には、大家族出身のジュリーさんの親族と共に、サンクスギビング、クリスマス、正月を祝うのが長年の習慣。親族だけでなく、日系四世、五世の友人たちも集まる賑やかなコミュニティーに、深く関わっている。日米の文化を通して大切にしているライフスタイルは、まさにこの「大家族の集まり」に象徴されている。
ひとつ興味深いことも聞いた。乃助氏は、日系人の中でも特に日系二世を高く評価し、尊敬しているという。理由は、日系二世はアメリカで生まれ育ち、日本とアメリカのどちらに属するのかというアイデンティティーの葛藤を抱えているからだ。日系一世(移民の世代)には日本という「帰る場所」がある。それに対し、「自分はどこの誰なのか」という自問自答を抱えながらも懸命に生きてきた日系二世の苦労や功績には深い敬意を払っている。何世代にもわたる日系人の生き様を間近で見てきた乃助氏だからこそ持つ視点である。

日本伝統文化の未来
夢は若者へ
乃助氏の日本文化継承への情熱は、趣味の領域を超え、文化活動という「功績」として結実している。彼が創設し60年近く続く桑港樽神輿連は、海外の神輿団体としては最古参級の存在だ。ジュリーさんとの出会いの場ともなった、文化発信の拠点であるサンフランシスコ太鼓道場を田中誠一氏とともに生み、育ててきた。また、サンフランシスコ日本町の新春を飾る伝統行事である獅子舞活動を半世紀以上にわたり継続してきた。これらは、彼が日本文化を「継承」するだけでなく、アメリカの地で「創造」することに尽力し続けてきた証しだろう。
乃助氏には夢がある。ジャパンタウンでの神社建設だ。「(神輿の)起点になるものを作りたいよね」と、目を輝かせる。「幸いなことに、アメリカ人でも神輿や神社に関心を持っている人は多い。神社を建設することで、日本人だけでなくアメリカ人が興味を持って、来るんじゃないかと思うんだよね。神社が文化交流の中心地になることを願っているんだ」と熱く語る彼はまた、この夢を今後のアメリカ独自の神輿文化の発展を担う若い世代に託したいと続ける。その上で、「彼らに伝えたいのは、格好(細かい決まりごと)なんかどうだっていいということ。本当に心から感じるものを、何でもいいからやってほしい。日本の厳格なルールを真似るのではなく、自分たちが始めるんだという意識で、ベイエリア/アメリカ独自のものを生み出すチャンスだと考えてほしい」と話す。
ジャパンタウンにあるカフェ「アンデルセン」にはほぼ毎日足を運び、友人たちと語らう乃助氏。彼は、故郷横浜から「逃げた」と話す場所で、誰よりも深く、熱く、日本文化の火を灯し続けてきた。秋山乃助氏の生き様は、異国の地でルーツを大切にしながら、新たな文化を創造する、まさにベイエリアの大和魂そのものだ。彼の描く未来は、サンフランシスコの風に舞う神輿のように、力強く、次世代へと受け継がれていくことだろう。
プロフィール
秋山 乃助
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Akiyama Nosuke
神奈川県横浜市出身。1965年、高校卒業後に渡米。2027年で60周年を迎える桑港樽神輿連の創設者・相談役。田中誠一氏と共に立ち上げたサンフランシスコ太鼓道場は、1968年以来活動を続けている。また、毎年正月にSF日本町で獅子舞を披露することで広く知られる。JFCインターナショナル勤務を経て、現在は日本文化を継承すべく若者への指導を続けている。