「不確かな私」
みなさんこんにちは、いかがお過ごしでしょうか? 日本に帰って14年が経ちますが、毎年この時期になるとサンクスギビングのご馳走を思い出します。ターキーのお腹に詰められたスタッフィングが好きなのですが、日本ではなかなか食べる機会がなく残念です。
さて、講演などの仕事で日本各地に行くと、土地のおいしいものをいただくことが多いです。食いしん坊なのでSNSなどにあげていると、いつの間にか「美食家僧侶」という、僧侶としてはどうなのか? という称号をいただくことに。「美食家僧侶・英月さんプレゼンツ!」という見出しと共に、イベントが企画されたりしていますが、私は美食家なのか? 本当に味がわかるのか?
ちなみに美食家とは、辞書によると「贅沢でうまいものばかりを好んで食べる人」のことだとか。おいしいものを好んで食べるのは事実ですが、何をもって贅沢とするかは人それぞれ。高価ではなくとも、お手間入りであったり、季節や場所が限定的であったりすると、贅沢なものだと感じてしまいます。となると、私は美食家の部類に入ってしまうのかもしれません。では、本当に味がわかるのか? ということです。
現在、大学院修士1年生の私、英語の授業でアメリカの大学で使われている『宗教学概論』の本を読んでいます。そこに、こんな実験のことが書かれていました。普通のビールと酢が入ったビールが用意され、被験者にもそのように伝えられます。その上で、どちらがおいしいかと尋ねると、全員が普通のビールの方がおいしいと答えます。次も同じ2種類のビールが用意されますが、酢入りのビールはMITが新しく開発したものだと嘘を伝えます。すると全員が酢入りの方がおいしいと答えたそうです。実際に口にし、おいしくないと判断したものが、後付けの嘘の知識や情報よっておいしいものに変えられたのです。けれども本人は、そのことに気づいていないのです。ということは「本当に味がわかるのか?」というのは、はなはだ疑わしいのです。
そしてこれは、ビールだけのことではないのです。私たちの日常でも、おこることではないでしょうか。「これは正しい」「間違っていない」との思いも、果たしてそうでしょうか? さまざまな影響によって、簡単に変えられているのかもしれません。
写真:Noriko Shiota Slusser
英月(えいげつ) 真宗佛光寺派長谷山北之院大行寺住職。江戸時代から続く寺の長女として、京都に生まれる。同業者(僧侶)と見合いすること、35回。ストレスで一時的に聴力を失う。このままではイカン! と渡米。北米唯一の日本語ラジオ「サンフランシスコラジオ毎日」でパーソナリティーを勤める他、テレビ、ラジオCMに出演。帰国後、大行寺で始めた「写経の会」「法話会」に多くの参拝者が集まる。講演会、テレビ出演、執筆など活動は多岐にわたる。最新著書は『二河白道ものがたり いのちに目覚める』(春秋社) 。