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あなたの「今」が輝くために−其の百五十四

2025.09.03

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「私を生きる」

 「少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず」と言いますが、そもそも若くもないお歳で大学院に入学した私、早くも卒業年度です。早い! 早すぎる! 「学成り難し」のままなのにー。思い起こせば険しい道のりでした。短期大学卒業なので大学院の受験資格がなく、通信制の大学3年次に編入したのが3年前のこと。その後卒業し入試を経て、晴れて大学院生となりましたが「一寸の光陰軽んずべからず」の姿勢で学んできたかは微妙です。とは言え、精一杯やってきた自負はあります。なぜなら私の頑張りを一番知っているのは、他でもない自分自身ですから。そう、私“が”頑張ったのです。

 しかし改めて考えてみると、生まれてから今まで「私“が”」の連続です。私が頑張って、そして私が生きている。しかし、果たしてそうなのでしょうか?

 人生のスタートを思い返してみると、自分の意思で時と場所、両親や自身の姿などを選んで生まれてきたのかといえば、当然ながら違います。例えば体重の成長は本人の努力に依るところがあるかも知れませんが、身長は如何ともしがたい。また、今のところ病院のお世話にならずに暮らしていますが、父が糖尿病なのでこの先、発症するかも知れません。そう、私自身の体のことから、持って生まれた体質や病気まで、何ひとつ決められないのです。私自身のことなのに、私そっちのけで、私という存在ができあがっている。それだけではありません。日本人として生まれたなら、日本人としての歴史も否応なく私に関わってきます。「親の因果が子に報い」ではないですが、私という存在は家族の、そして国の歴史までをも背負って生まれてきたのです。理不尽だ! と思うかも知れませんが、その理不尽ないのちを、私が頑張って生きているのです。

 けれども、どうでしょう? 私“が”生きていると思っていましたが、私自身で選べないいのちを、ある日突然もらってしまったのです。その事実を知ることで、新たな視点に気付かされるのではないでしょうか。それは、もらってしまったいのちを生きている、つまり私“を”生きているということです。私“が”生きるではなく、私“を”生きる。この視点に立った時、人生の景色が変えられていくように思います。



写真:Noriko Shiota Slusser

英月(えいげつ) 真宗佛光寺派長谷山北之院大行寺住職。江戸時代から続く寺の長女として、京都に生まれる。同業者(僧侶)と見合いすること、35回。ストレスで一時的に聴力を失う。このままではイカン! と渡米。北米唯一の日本語ラジオ「サンフランシスコラジオ毎日」でパーソナリティーを勤める他、テレビ、ラジオCMに出演。帰国後、大行寺で始めた「写経の会」「法話会」に多くの参拝者が集まる。講演会、テレビ出演、執筆など活動は多岐にわたる。最新著書は『二河白道ものがたり いのちに目覚める』(春秋社) 。

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