BAYSPO 特別インタビュー - 宅見将典さん-

第65回グラミー賞最優秀グローバル・ミュージック・アルバム賞を受賞した宅見将典さん(以降 Masaさん)。2011年に初めてグラミー賞に参加してから受賞するまでの思いや、アメリカの恩人がいる大切な場所だというサンフランシスコについてお話を伺った。
宅見 将典(Masa Takumi)
音楽への目覚めは小学校でのブラスバンド部のトランペットに始まる。13歳の時に出会ったXJAPANのYOSHIKIの音楽に影響を受け、以来バンドを組みながら作曲し、2000年に3ピース編成のロックバンド"siren"でBMG JAPANよりメジャーデビュー。バンド脱退後は、作編曲家、マルチ・インストゥルメンタル・アーティストとして活動し、数々のプロデュースや映像音楽などを手掛けている。
受賞された時の心境はいかがでしたか?
とにかくびっくりしました。「受賞おめでとうございます」と言われることにもまだ慣れていません。同じ賞にノミネートされたのは、エド・シーランとコラボしているバーナ・ボーイや、ビートルズにシタールを教えた巨匠ラヴィ・シャンカールの娘アニューシュカ・シャンカールなど、名だたるアーティストばかりで、自分が受賞したのが信じられませんでした。受賞したグローバル・ミュージック・アルバム部門は、今まで東アジア人で受賞した人がいなくて、日本にとってはもちろん、アジアにとっても大きな一歩だと言われました。
受賞アルバム『Sakura』について教えてください。
アジアの浮遊感というのを意識しています。未来のアジアが平和で一体となっているような。僕は日本人なので、日本の楽器がメインなんですけど、それを取り巻くのは中国のフルートやインドのパーカッションだったり、色んな国の楽器で包み込んでいます。それに僕は大衆的でありたいという気持ちがあって、音楽的にすごい一部の人だけがわかるものを作りたいとは思わなくて。でも、今回グラミー賞という音楽界最高峰の、音楽の中心にいる人たちが僕を選んでくれた。奇跡のタイミングで世界中に称賛されて、こんな嬉しいことは今までの人生でもちろんなかったし、必死で何も見えない中で頑張ってた、数年前の自分に「いいことあるから頑張れ」って言いたいです。
初めてグラミー賞に参加されてからの12年間はどんな時間でしたか?

2011年に初めて行った時は、僕の名前はクレジットされていなくて、2013年の第56回で初めて正式にノミネートしてメダルをもらいました。2016年からは自分の名義でエントリーを始めて、7年で5回エントリーしました。初めてグラミー賞に行った時、X JAPANのYOSHIKIさんに「マー君はまず英語をやらないとね」と言っていただいて。それがこのジャーニーの始まりでした。英語も一から勉強しました。2016年に初めてエントリーしたアルバムがノミネートされなかったのがあまりに悔しくて、『移住して絶対グラミー取ってやる』ってフェイスブックに書いちゃったんですよ。アメリカの友人は、うわぁMasa言っちゃってるよーと。ほぼ無理なことを宣言してしまっているという。当時はこの重大さがわかっていませんでした。実はこの間、その時のフェイスブックの投稿に『この時から応援してくれてありがとう。ついにノミネートされました。6年後の Masa Takumiより』って書いて、タイムカプセルのメッセージみたいにコメントしました。
移住されてからは、サンフランシスコにも来られたそうですね。
はい、山昌の山田昌吾さんや紀子ママにすごくお世話になったんですよ。紀子ママはアメリカの母のように、ずっと良くしてくださって、チャンスと出会いをくださった方で本当に感謝しています。昌吾さんと出会ったのも紀子ママのおかげです。山昌ではライブもさせていただきました。最初に会った2018年から、僕がグラミー賞を絶対取るって信じて、応援して、すごく大切にしてくださいました。昌吾さんが亡くなった時はコロナでお葬式に行けなくて、日本から童謡の「ふるさと」をギターでレコーディングして送り、葬儀で流してもらいました。昌吾さん、最後はきっと日本に帰りたかっただろうなと思って。本当に優しい人でした。実はグラミー賞の発表の時、胸に山昌さんの名刺をお守りに入れていました。昌吾さんや紀子ママをはじめ、サンフランシスコの皆さんが応援してくださって今があるんですよね。応援してくれたから頑張れました。昌吾さんが太鼓を叩いている姿も覚えています。アメリカで頑張ってた時にMasaさんって言って… だから胸に……。

昌吾さんを思い出し、涙を流すMasaさん。アメリカでの移住生活についても話してくれました。
ロサンゼルスに移住していた3年間、友達がほとんどいなかったんですよ。修行だったし、全力で夢を追いかけるためにいたので、日本人の友達は作らないようにしていたんです。あえて自分を厳しい環境に置きました。移住するのは3年間だけと決めていたし、時間ではなく内容だと思っていました。3年間で何ができるかというのが念頭にあったので、自分を極限まで追い込めたというのもあります。蕁麻疹も出ましたし。一つの勝因は諦めなかったことだと思います。
たまにサンフランシスコに行く時だけが、僕の癒しの場でした。紀子ママや昌吾さんのおかげで、たくさんの日本人の方が迎え入れてくれて。あまりに皆さんが良くしてくださるので、サンフランシスコにいるとだめになると思って、なるべく訪れないようにしていました。サンフランシスコでパワーチャージして、LAに帰ってまた頑張るっていう、僕にとってサンフランシスコはそのくらい大事な場所です。
今回、ひとつの大きな夢を手に入れましたが、次の目標はありますか?
まだ直後なのでそこまでわからないんですけど、自分が音楽家として、その名に恥じないお仕事をさせていただくということと、映画音楽やテーマ曲を日米問わずにしていきたいですね。また、自分が架け橋となって、日本人がもっとグラミー賞を目指せるような環境を作れないかというのを、模索して考え始めています。

サンフランシスコ・ベイエリアから応援するファンに向けてメッセージをお願いします。
本当に自分にとってはできれば住みたかった街。今、全米ライブツアーを計画しているんですけど、真っ先にサンフランシスコを候補地にあげさせてもらいました。皆さん本当に応援してくださってありがとうございます。そして、自分がこういう賞をいただいた挨拶として、近い将来、サンフランシスコでのライブを計画しているので、お会いできるのを楽しみにしています。
プロフィール
宅見 将典
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Masa Takumi
音楽への目覚めは小学校でのブラスバンド部のトランペットに始まる。13歳の時に出会ったXJAPANのYOSHIKIの音楽に影響を受け、以来バンドを組みながら作曲し、2000年に3ピース編成のロックバンド"siren"でBMG JAPANよりメジャーデビュー。バンド脱退後は、作編曲家、マルチ・インストゥルメンタル・アーティストとして活動し、数々のプロデュースや映像音楽などを手掛けている。